Exhibition

村山伸彦 “鳥と木と目”

2017年8月11日(金)– 9月17日(日)

"red berry" / 2017 / oil, pigment, cotton, canvas / 40x50cm
©Nobuhiko Murayama, Courtesy of HAGIWARA PROJECTS

11 August- 17 September, 2017
土日のみ開廊 12:00 - 19:00 | Open Saturdays and Sundays

オープニングレセプション 2017年8月11日(金) 18:00 - 20:00
Opening Reception 18:00 - 20:00, friday, 11 Augst, 2017


[同時開催]
" Light through the window "
村山伸彦、佐藤純也、ニナ・バイエ&マリー・ルンド
Nobuhiko Murayama, Junya Sato, Nina Beir & Marie Lund

会期:2017年8月26日(土)−9月24日(日)
会場:HAGIWARA PROJECTS
住所:東京都新宿区西新宿3-18-2 101 | #101, 3-18-2 Nishi-Shinjuku, Shinjuku-ku, Tokyo
電話番号:03-6300-5881
開館時間:11:00~19:00 (12:00-17:00 on Sun.) 月・祝は休廊 | closed on Mon. and Public Holidays
hagiwaraprojects.com

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村山伸彦の作品を初めて見たのは確か夢の中だったと思う。なんとなく見えただけなので何とも言えないが、南国気取りのカレーらしき匂いで目を覚ます前に見ていたヴィジョンの中に村山の作品制作風景がうっすらぼんやりと浮かんで見えていた。その匂いは下の階(の不思議なかたちの表札をかかげるおじさんの部屋)から屋外の熱気と混合して開けっ放しの窓伝いにやってきた厚かましい訪問者で、踊り狂う微細なスパイスの粉末で部屋の空気が薄く染まるような印象さえあった。丹念に練られた暑苦しい風は私の鼻の奥の繊細な部分を刺激し続けて支配し、夢の中の村山の作品はカレー粉の薄霧に包まれたように少し黄色がかってぼんやりとしていた。夜中の意識しない運動の跡を示したグシャグシャの布団カバーと自分の体が区別されて覚めるまでにあと数分はかかろう。この霧をかき分けてイメージの具材を拾い集めて混合し、ゆっくり煮詰めてこのテキストを書きあげねばならない。まずは黄色っぽい夢、村山の作品が登場するあの夢を見るのが手っ取り早いだろう。そして都合のよいことに仕事をしようとすると眠くなる私の体質が今回のやり方に合致しているという偶然やら神秘のパワーがどうたらとか言っているうちに目は半開きで涅槃を見つめるアジアの偶像様を具現化したよう、などというのは不遜に過ぎようか。インド舞踊のように首をうつらうつらと動かしながら(インド舞踊にそのようなものがあったかどうかはわからないが)、やがて目を閉じる。
そういうわけでスパイスを効かせた風と布団に包まれながらの二度寝で村山伸彦のアトリエを訪ねてみようとしたわけだが、結論から言うとたどり着いたのは村山のアトリエではなくインド(っぽい)山村だった。わかりやすく村山をひっくり返して山村に来てしまったのだとしたら、これさえも村山とカレー粉の導きか、と、早速菩提樹の下でうなだれてシッダールタ気分に浸るのもつかの間、一見かわいそうだがよく見ると自信満々な素振りも見せる猫が私の横にピッタリと寄り添い、十二支からハブられていることを嘆くようにうなだれた。しかし果たしてこいつは十二支のメンバーなんぞに登録されたかったのかどうか。ネズミに騙され寝すぎてしまい、神様へのご挨拶が遅れて十二匹の定員オーバーで省かれたという話もあるが、それ以来ネズミを仇に置い続ける執念深さは暗黒の一途さ、出会った場所が夢でなければ語り合い、「目には目を」の不毛さを生意気にも説いてみたい、、、、が、いや、考えてみればむしろ夢でもなければ猫と語り合うことなどできまいと気付き、思い切って話しかけてみようと決めた。

Q 十二支に入りたかったのか?

A いや、入りたい入りたくないの問題ではない。結果論で決め付けられても困るし、俯瞰して見てみてほしい。そうしたら皆が目指す方向に私までが向かうことが合理的でさえなく、弱肉強食論以外の基準で逃れた境遇はむしろ興味深く見えないだろうか。

Q しかし、あなたは動物であることくらいは受け入れているだろう。だとしたらその前提において、自己認識のポイントはどこにあるのか?

A 私はたしかに動物だ。ただしかし、動物であることを諦めようとはしていないだけだとも言える。が、仮に動物であることを手放した私は果たして何者なのか?ただの置物に毛が生えたものではないのはたしかだろう。あなたがただの肌色の置物でないのと同じように。いや、考えてみたらそんなオブジェも悪くないな。どうだろう、毛の生えた置物と肌色の置物が隣同士で並んでいる光景も悪くないのではないか。

そのような問答が長続きする前に、空気のように漂っていたカレーの匂いが甘いココナッツの香り漂う風に彩られて、先ほどまで黄色くぼんやりとしていた景色は輪郭を鮮やかにまとい、まるで現実にタイ料理屋で村山に相対しているかのよう、、、で、本当に村山に相対していたようです(目覚めの瞬間を作り出したのはラッシーを机に叩きつけるように運んできた店員)。グリーンカレーが撒き散らす緑色の匂いの霧に紛れながら、何とが俯いて考えごとをしていた風を装う。が、装いきれない気まずさに背中を押されて猫、ではなく村山に質問を投げかけようとした私の目の中で薄らぼんやりと揺れたのは薄目を開けて佇む釈迦像のような村山の姿だった。薄目の奥を覗き込むことさえ困難なほどに、眼球の存在は神秘的に隠されていた。窓の外の夕焼けと店内の緑の空気のコントラストを感じながら沈黙は瞑想を呼び込みそうな雰囲気を漂わせたが、その目が薄くさえも開いていないことに気付いた時に、不思議と微笑みが漏れ出てしまったことは秘密にしておきたい。
タイは微笑みの国などと誰かが言っていた気がする。だとしたらここは微笑み屋みたいなものである。安らかに居眠る村山の表情もよくよく見れば微笑んでいるように見えなくもない。タイに行ってみたい。ここがどこなのかわからなくなる瞬間、その後必ず訪れるのは状況と認識のコントラストである。そこにあるのはグリーンカレーなのか、グリーンカレーの匂いなのか、色なのか、味なのか、あるいはタイなのか、ベルリンなのか、インドなのか、スパイスなのか、人参なのか、人参を入れないでほしいと願う子供なのか、カリーなのかカレーなのか、、、、
緑色の靄と黄色い霧、匂いの霧が混ざり合うようにして豊かな夏を象徴しているかのよう。どこかに想いを馳せていたら、ちょうど一年前に村山自作のカレーをご馳走になったことを思い出していた。あいにく私の鼻が詰まっていてほとんど無味のカレーを味わうことになったのだが、匂いの霧は後からやってきて、カレーの彩りが今ここで完成した気がする。この場を借りてご馳走様と言いたい。一年前に言わずに今ここまでとっておいたのは礼儀知らず、とはいえ結果的にはいくらか遅れてやってきた言葉が妙に豊かなのは確かで、一言言えなかったことにも意義があったかもしれない。
お礼は早めに言ったほうがいいけれど。

妙論家 池田シゲル

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村山伸彦 (1980年 神奈川県生まれ)
東京藝術大学絵画科油画専攻卒業。四谷アートステュディウム修了。現在、ベルリンを拠点に活動。
nobuhikomurayama.com